今月のたまねぎ当番(「詩歌句」2008年4月号)

   「永井祐については、語らずにいられない」


少し前の話題になってしまったが、角川「短歌」一月号の新春討論会「短歌はどこへ行くのか」は印象的だった。

三十代歌人である大松達知、小川真理子、黒瀬珂瀾、吉川宏志が「これからの短歌の主流になりそうな歌」の例を挙げて討論したのだが、意味がわかりやすく実人生に寄り添った歌にこだわる大松、ゲーム世代など社会現象から若者の歌を読み解こうとする小川、従来の価値観の外で評価されている若手を推す黒瀬、そして、短歌を読む基本的な「ルール」の重要さを説き、そのルールを無視しているように見える若手の歌には懐疑的な吉川と、四人の立ち位置が明確だっただけに、議論の噛み合わなさに、何とももどかしい気持ちになったである。

歌壇の内部にいる人にとっては、結社などに所属しない今の若手歌人たちが、仲間内だけに通じる言葉を使い、従来の読みのコードを無視しているかのように見えるらしい(=吉川、大松)。反対に、歌壇からある程度距離を取っている人にとっては、歌壇内部の方こそが、限られた読みのコードに縛られ内に籠っているように感じられる(討論では、相対的に黒瀬がこちら側に立った)。で、身も蓋もない言い方をしてしまえば、どっちもどっち、なのだろう。

吉川宏志の「共通の読みによって読み解ける=歴史につながる=本物」、という図式は、現在ではいささか素朴すぎるように感じられる。異なる価値観を持った書き手が現れたとき、これまで通りの価値観だけで読もうとすれば、行き詰まるのは当然ではないだろうか。

一方で、若手歌人が作る歌の意味や動機が上の世代に伝わらず、これまでの短歌に関する勉強不足と受け取られるのは、私たちが同世代、あるいは先行世代の歌について、自分たちなりの読みを表明できていないせいでもある。この点は真摯に受け止め、精進していきたい。

いずれにせよ、異なる立場の人たちがそれぞれの島に棲み分けている状況は、短歌というジャンルにとって好ましいとは言い難い。お互いの歌をもっと読み合い、語り合う場の必要を感じている。

という訳で今回は、独自の価値観を持つ若手歌人の一例として、討論でも名の挙がっていた永井祐の歌を取り上げてみたい。

私の作歌信条と永井祐のそれとは、相当隔たりがある。しかし、永井祐の歌をどう読むかという問題は今後の短歌全体に関わっていくという予感があって、熱を込めて語らずにはいられないのである。

わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる
  永井祐(「短歌ヴァーサス」11号)

『とてつもない日本』を図書カードで買ってビニール袋とかいりません
  (以下、引用は「セクシャル・イーティング」http://www.sexual.eating.com/)

写メールで地元を撮る暮らし。大仰なタイトルの本を(あらかじめ買える金額の定められた)図書カードで買い、ビニール袋さえ要らないという、ささやかなライフスタイル。ここには、ある限定された社会の内側で生きざるを得ない、現代の若者の姿が如実に反映されている。

ただし、永井の面白さは、そのような社会との苦い関係性だけでは読みきれないところにある。

明るいなかに立っている男性女性 こっちの電車のがすこしはやい

本屋さんを雨がさらってその前の道にたばこの箱が落ちてる

前述の討論会で黒瀬珂瀾は、永井祐の歌には「イベントがない日常を永遠に生きなければいけないという焦り」があると評していたが、私には、むしろ大きなイベントのない日常を、「わりと肯定的に」生きている姿のように映る。たとえば、併走する電車の一方から、もう一方の電車の光を見ていること。それは、見逃してしまいそうなほどささやかな一瞬だが、一度その小さな世界を覗き込めば、そこはミリ単位の楽しさや切なさが詰まった、案外豊かな世界であることに気付かされる。これらの歌から、社会に対する強いルサンチマンを感じる必要は、特にないだろう。

もちろん、「こんな微細な幸せを描くのが豊かな生き方と言えるのか」という批判が出るのは、もっともである。しかし、この一見省エネな生き方が、今の時代を生き抜く有効な術(すべ)のひとつであることを、私は否定できない。そして、そのような生き方を等身大の文体で描き出すことに、永井祐の短歌は成功している。

もう一つ強調しておきたいのは、この一見無造作な口語文体は、実はかなり注意深く選び取られたものだということだ。

今日は寒かったまったく秋でした メールしようとおもってやめる する

上の句の句またがりもそうだが、結句の後に置かれた「 する」に注目してほしい。手前の「やめる」までで、ちょうど三十一音。一拍置いてから付け加えられた字余りが、心の僅かなためらいを表現している。定型の特性は十分理解した上で、あえて日常語そのままのような口語を持ち込む。それは、「自分(たち)のリアルな日常は、口語でこそ切り取ることができる」という、自負の表れに他ならない。

飄々とした表情の下にしたたかさを秘めた永井祐は、なかなか厄介な歌人なのではないだろうか。




石川美南@山羊の木

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